2012年02月29日

美しい言葉の影

 人の死を、脳死とする問題、さらに書きます。

 全体死を人の死とする立場から見ると、部分死で臓器を取り出すという行為は、殺人に等しいと思えます。

 殺人が、合法的に行われる時には、いつもきれいな言葉と大義名分が掲げられます。

 戦争がそうです。

 そこには、大きな利権が存在しているのを、忘れてはなりません。

 移植医療1件には、億のお金が動きます。


 
 『移植で助かる命があります。』

 この美辞麗句で、ドナーカードを持たれている方も多いと思います。

 
 頭部を挫傷した場合、脳が浮腫を起こして死亡するため、一般的には低体温。つまり打撲と同じように冷やす処置が行われます。

 ところが、患者がドナーカードを持っていると分かった時、必要な処置が取られないばかりか、逆に点滴などの処置を行い、全身を浮腫状態にして、脳死判定に持ち込むケースが≪「脳死」・臓器移植に反対する関西市民の会≫の医師たちによって告発されています。

 瑞々しい臓器を取り出すためです。


 「臓器移植でしか助からない命」

 そもそも、臓器移植を前提とした、死の先取り=命の先取りが脳死論議の始まりでした。

 

 死を目前にした病者の切迫した気持ちは分かります。

 医療は、そのような状態に対して、臓器移植以外で、自然の摂理に適った方法で、人を病苦から救う道を探るべきです。
posted by いおり at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 脳死問題

2012年02月25日

生命とは

 人の命って、何で成り立っているのでしょう。

 人の命の中心・中枢ってどこにあるのでしょうか?

 
 宇宙とは何か、物質とは何か、生命とは何か、という問いは、人類の三大謎と言われています。

 宇宙・物質・生命を成り立たせているものは、これだけ様々なことが解明されてきてはいても、依然として謎のままです。

 仕組みがある程度分かったとしても、その仕組みを成り立たせている「なにか」は、依然として謎のままなのです。

 マクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)、言い換えると大自然と小自然。

 神道や様々な宗教の世界観に通じる考えですが、東洋医学も人体は小自然と捉えます。

 
 では、自然とは何であるのか。
 
 江戸時代の哲人、安藤昌益はその著書「自然真営道」でこれを「自(ひとり)然(する)」と読んでいます。

 種を播くと、時期が来たら芽を出し葉を広げ花をつけて実を付け、そして枯れて種を落として・・・

 これらの変化を自然と呼び、物質の変化を起こさせる「なにか」がすなわち生命です。


 細胞の働きやホルモンをいくら解明しても、この「なにか」は謎のままです。

 一度枯れて死んだ木に、花を咲かせることなど、誰にもできないはずです。

 人間は、命を作りだすことはできない、という事実に謙虚になるべきです。  

 人の死は、脳という部分死で判断するのではなく、従来の全体死の立場で判断することこそが、生命と謙虚に向き合い、見守ることであり、本人以外の第三者が侵してはならない、命の尊厳だと思うのですが、どうでしょう。
posted by いおり at 06:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脳死問題

2012年02月18日

死の判定

 何をもって人の死とするのか。

 従来は、心臓と呼吸の停止、瞳孔の散大などの三徴候をもって死亡と判断されていました。

 これらの三徴候は、専門家でなくとも万人が、いや子供でさえ確認できる徴候でした。

 それが臓器移植法により、死は専門家の手にゆだねられることになりました。

 脳死判定基準は、各国によって異なります。というのも、そもそもおかしな話ですが、ここでは触れません。

 それより、なにより、専門家としての医師と万人の共通のテーブルにあったはずの死の判定を、私たちの手から取り上げて、専門家だけで行わせてよいのでしょうか。

 これは立法化した政治の責任でもあります。

 それぞれの分野で、突出した技能を保持する専門家の意見と技術は、貴重なものではあるけれど、すべてを任せてそれで「よし」とする危険性は、今回の原発問題でも明らかではありませんか。

 科学技術は過信してはだめですよ。

 
 特に直接人命にかかわることには。

 取り返しがつかない、では、済まない。
posted by いおり at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 脳死問題

2012年02月17日

脳死は人の死か

先日、ホープページでリンクしています「脳死・臓器移植に反対する関西市民の会」から、緊急市民集会の案内が届いたので、最後に掲載していますので、興味のある方はご覧ください。

 脳死を人の死とすることに、論議が始まった時から一貫して反対しています。

 「客観的」に意識が無くって、死をまぬがれないとしても、その人の内面で何が起きているのか、その本人にしか分かりません。

 つまり「主観的」内面は、本人以外、誰にも分からないということです。


 実際に、臓器を取り出す時には、筋弛緩剤と全身麻酔が施されます。

 なぜならば、臓器を取り出す手術が始まると、暴れるからです。

 移植医は、反射だと説明していますが、メスを入れる前に、脈拍と血圧が上がることを明確に説明していません。


 僕は、臨死体験を持っていますが、死に直面した時は、まどろみの中で、生きてきた自分の人生を振り返る時でもあります。

 そんな時に、筋弛緩剤と全身麻酔で抵抗できなくされて、臓器を取り出されるなんて、身の毛もよだつ残酷なことです。


 科学は客観性を重んじますが、私たちは、それぞれかけがえのない「主観的」感覚で生きています。

 その人の「主観」などは、数値化できないものですし、そもそも科学では扱えないはずのもの。

 「移植でしか助からない命」と「脳死を人の死」とすることとは、分けてもう一度考えるべきだと思います。

 移植医療に限らず、医療はもはや医療産業化しているのだという認識を持たなくてはならないような状況になってきています。

  • IMG.jpg
posted by いおり at 18:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 脳死問題
最近のコメント
花粉症のあれこれ by (04/13)
花粉症のあれこれ by アンクルガーデナー (04/12)
特別なことは、ムダ by アンクルガーデナー (02/22)
春の気 by (02/16)
春の気 by アンクルガーデナー (02/15)
タグクラウド