2015年09月26日

自分が蒔いた種と加持・祈祷

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花壇で 




 僕のかつての知人に、医療者でありまた僧侶として非常に霊的能力に長けた人物がいました。


 その知人がポツリとつぶやいたこと。


 「加持・祈祷は、人を堕落させるな・・・」と。


 人は、自分で蒔いた種を刈り取る時期になり、自分でどうにもならなくなり、救いを求めて頼ってくる。


 医療にやってくる人も、似たようなものです。


 問題なのは、自分が、どんな種を蒔いたのか見ようとせず、刈り取ってもらってやれやれ、で終わる人。



 その知人は良かれと思って加持・祈祷を、やってもやっても、同じ人が同じパターンでやってくることに疑問を持ったようです。


これは宗教でも医療でも、分野が異なるだけで同じことだなと思いました。


 知人にとっては、これもまた学びではあるのですが。



救いを求めて・・・ってね、聞こえはいいですが、裏を返せば自分のやらかしたことが分からなくて右往左往している状態じゃないですか。


自分のやらかしたことを、はなっから見ようとせずに、救いを自分の外にあるものに求めるから、いつまでたっても本当には救われないのですよね。


そして宗教・医療・癒し系経済にからめとられ、消費者として金銭的コストを負担しつつ、救いの安心は手に入らない。


そりゃそうでしょう、真実救いの手は、決して仏像やご神体、先生と呼ばれる外なる対象には在りません。


在るとすれば、対象に接して自分の内的体験として感じる「なにか」に在ると筆者は断言します。今現在も、よく迷う筆者の体験です。


神仏は尊い。でも救いはそこにはなく、それを感じる自分自身にあります。


自分以外のもので救われたと感じておられる方は、対象を通じて自分の心の感覚に気がつかれた方です。


難病を克服された方に接していると、やはり克服の過程で人生観そのものが変わっておられます。




 その知人に弟子として紹介した、これまた霊能力に長けた友人がいるのですが、修行が終わって後、友人は悟るところがあって普通(?)に暮らしています。


 加持・祈祷って、高い能力があればあるほど命がけらしいです。恐ろしいですね〜、人のためにそこまでやるなんてね。


 こんなこと言ってる筆者も、同じ種を蒔くのなら幸せの種を蒔きたいと思いつつ、知らず知らずの間に思いもよらぬものを育ててしまい、自分の手に負えなくなることがあります。


 厳しくとも、筆者がどのような種を蒔いたのかを、目の前に突き付け、刈り取る手伝いをしてくれる友人は、煙たくもあり、ありがたくもあります。時々、共感もしてくれますが・・・


 なんか、筆者の懺悔のようになってしまいましたね。


 で、今度は筆者が友人に、懺悔を促し六根清浄の鍼を施すのですが・・・これが効く効く、自分の腕が上がったのかと勘違いするくらいに。


 相手がちゃんと、受け取る準備が出来ているからです。


 ってね、あやしいと感じられるかも知れませんが、鍼術の根源は道教ですから。



筆者自身、人を救うなんてとてもとても・・・できないと自覚しています。当たり前ですが。


お釈迦さまでさえ、「クモの糸」のカンダタに救いの手を差し伸べられたが、助けることはできなかったではありませんか。


 できるとすれば、やはり杖くらいですかね、時々・・・いや結構、頻繁に折れそうになりますが・・・




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posted by いおり at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 診察室の窓
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